大館路−NO.07


大館路

NO.07

■佐竹丹波の所在なり。知行高七千石といえども地方広々として三万石もあるといふ。

■昔の岩瀬村から十二所街道や越山経由の夏越えという津軽道が分かれ、その中心に羽州街道があり米代川があった。大館市に入り米代川の氾濫源右岸に広がるのが下川沿である。山田川の合流点付近が川口で、大館への入口となっていた。
■大館は佐竹氏の支配下に入る以前、戦国期には浅利氏や秋田氏(安東氏)によってすでに町としての体裁が整えられていたというが、木場義成が大館城代になって佐竹西家を名乗って以来、たび重なる火災に見舞われながらも本格的な町割りがなされたものという。
■羽州街道が通る常盤木町から鍛冶町、大町、馬喰町、田町などの外町は「桂城」といわれた大館城本丸を離れた外郭地にあり、外町の要所には木戸や町門が設けられ、さらに外側には多くの寺院を配置大館桂城公園し戦略的な城下町の体をなしていた。桂城址は眺めのいい高台にあり、市民憩いの公園となっている。わまりには佐竹氏ゆかりの遍照院や大館八幡神社、宗福寺、部垂八幡、一心院などがある。
■大館城から北へ延びる道は、田町から川原町、独錮(鈷)町、通町を経由して材木場や蔵のあった長木川のほとりにでる。長木川は、その名のとおり秋田杉などを運ぶ重要な水路ともなっていた。長木川を越えた街道は、現在の有浦という地名の住宅地を北上していたが、昔は氾濫湿原帯で、水にはかなり悩まされたようである。
■小坂への代野道を横切り、羽州街道は下代野から板子石に入っていき、旧釈迦内村となる。釈迦内には実相寺という大きな寺があって、その境内には北条時頼が廻国した際に釈迦仏木像を奉納したといわれる初七日山釈迦堂がある。釈迦内の釈迦内萩長森地名の由来ともいわれる所だ。
■さらに北の二ッ森のあたりで下内川に近づくが、橋桁に向かう萩長森西麓の旧道は、羽州街道の名残があり、リンゴ畑や苗畑などの中を橋桁まで歩くコースは散策に手頃である。橋桁から下内川を渡ると白沢で、ここは津軽侯往来のとき、馬継ぎや御本陣があって、少し先の寺ノ沢には境口御番所が置かれたが、後に長走に移された。この沿線には、天然記念物となっている芝谷地湿原植物群落や長走風穴高山植物群落など自然観察に手頃な場所も多く、また松原には秋田市松原の補陀寺の前身といわれる矢立廃寺があり、男神山、女神山の美しい山容とあいまってロマンをかきたてる見事な風景が広がっている。
■陣場では「今度渡橋」という珍しい名の橋を渡り、久保田藩領最後の難所である矢立峠にさしかかる。近くには赤湯とも呼ばれる矢立温泉や日景温泉など静かな山の出湯があって、旅人の疲れた心をいやしてくれる。


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