NO.04

塩硝街道

五箇山に向かう加賀藩の陰道


■五箇山から飛州白川へ
 金沢ヨリ飛州江陰道=u増補大路水経」は金沢から飛騨に入る最短コースであった。金沢から南東塩硝街道の図絵に浅野川の谷をつめて、最奥の横谷村から海抜430mほどの、低い国境の峠を越えて越中に入り、小矢部川の谷を遡って、海抜1000m近いブナオ峠を越えて五箇山に入り、西赤尾の口留番所を通って、飛騨の白川村に至るもので、これが前記の「陰道」であり、西赤尾では、「塩硝街道」と呼んでいる。

■国絵図に描かれなかった「塩硝街道」
 五箇山は越中国砺波郡に属していたが、飛騨の白川郷とともに、合掌造りの民家がある山村として知られていた。
 五箇山の名称は、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・栂(とが:利賀)谷からなるもので、これを五ヶ谷間(ごかやま)と呼んだものといわれている。現在、上平・平・利賀の三村からなっている。
 五箇山は庄川の中流域の谷間にあるが、下流は深い峡谷をつくっているので、谷沿いに入るのは困難で、すべての道は峠越えに通じ、その上冬は数メートルの積雪によって閉ざされてしまう。平野部とはまったく隔絶した、山間の秘境となるゆえんである。

■塩硝の生産合掌造り家屋群
 加賀藩は五箇山を指定して、火薬の原料となる塩硝を生産させた。塩硝の製法は、ヨモギなどの草を刈って乾燥し床下に掘った穴に、土・蚕糞などをまぜたものと、交互に積み重ね、これに尿をかけて放置し、硝酸石灰を生成させる。この硝酸石灰を溶出して、これに木炭を加えて、炭酸カリと硝酸石灰とを置換させて硝酸カリを得るもので、これが塩硝である。

■塩硝は各地の峠を越えて搬出されたが、金沢に直結する前述のルートは、最も重視されて、「塩硝街道」と称したものである。
 藩の機密に属するからだろうか、幕府に提出する「国絵図」類には、この通路は記されていなかった。「陰道」と呼ばれたゆえんである。

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