国宝シリーズ(タイトル)

NO.16
法華寺/十一面観音立像

法華寺/十一面観音立像■法華寺の本尊。像高1.00m。本堂の厨子内に安置する。平素は非公開で、春と秋に期日を限って開扉される。

■「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもつが、実際の制作は平安時代初期、9世紀前半と見られる。

■この伝承は『興福寺濫觴記(らんしょうき)』にみられるもので、それによると、乾陀羅国(今のパキスタン北部、ガンダーラ)の見生王は生身(しょうじん)の観音を拝みたいと熱望していた。王はある夜の夢で「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」と告げられたので、問答師という仏師を日本へ遣わした。問答師は光明皇后をモデルに3体の観音像を造り、そのうちの1体が法華寺の観音であるという。

■像はカヤ材の一木造。保存状態もよく、平安時代彫刻を代表する作品の1つである。制作当初から彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとする。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一材から彫り出した一木造である。

■経典には十一面観音像は檀像、つまり香木のビャクダン(白檀)を用いて造るべきことが説かれているが、ビャクダンを産しない日本では、カヤ材で素木仕上げの像を檀像とみなしていた。本像も檀像として造られたものと思われる。台座は像の蓮華の下を1本の細い茎で支える、珍しい形式のものである。光背も他にほとんど例をみない形式のもので、ハスの未開の花と葉を表している。この光背は明治38年(1905年)の補作だが、古い光背を踏襲して造ったものである。

■像は左脚に重心を置き、右脚を遊ばせ、右足の第1指がやや持ち上がって、歩み出そうとする瞬間を表現したかのようである。右腕を極端に長く表現するのは、仏の三十二相八十種好の一つである「正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましつそう)」を表したものである。本像の顔貌表現、胸部と大腿部の量感を強調したプロポーション、太いひだと細く鋭いひだを交互に刻む翻波式衣文(ほんぱしきえもん)などは平安初期彫刻特有の様式である。和辻哲郎(『古寺巡礼』)、亀井勝一郎(『美貌の皇后』)はいずれもこの像の表現を豊満な女体に例えて賛美している。

■法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、1999年に同宗を離脱し、光明宗と称する。

■佐保佐紀路の『法華寺』は、聖武天皇御願の日本総国分寺の「東大寺」に対して、光明皇后御願の日本総国文尼寺として、745年に創建された尼寺です。この土地は権力者「藤原不比等」の邸宅で、娘の光明子(後の光明皇后)がこれを引き継いだため、光明皇后ゆかりの逸話が数多く残されています。





■画像や紹介文はホームページ/wikipediaなどから借用しました■



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